巻頭言集
月報「活けるキリスト 一麦」巻頭言集 松原和人著
2009年2月第3週から週報に巻頭言集から抜粋し、「今週の霊想」として、毎週掲載しています。
- 創刊号より 1954年(昭和29年)1月 『発刊之辞』
“もし死ねば豊かな実を結びます。”(ヨハネ12:24新改訳)
発刊之辞
この教会の使命とする所は教理教義の説明に非(あら)ず、社会事業の実施にも非(あら)ず、イエス・キリストの今尚活きて働き給うことを身を以って体験し、世にこれを証明するにある。
主は今尚信ずる者に変わりなく働き給うているのである。使徒行伝は過去となって了(しま)ったのではない。
我ら信者一人一人はあのペンテコステの日弟子達に臨んだその同じ聖霊を受けて使徒行伝の一頁一頁を綴らねばならないのである。
- 第2号より 1954年(昭和29年)2月 『恵みの御座にぬかづけ』
“もし死ねば豊かな実を結びます。”(ヨハネ12:24新改訳)
恵みの御座にぬかづけ
牧師たちは謙遜(けんそん)な、真に魂を探られる様な祈(いのり)へと一同を導いて俟(まち)望(のぞ)もうではないか。役員達は悔いし砕けたる心を以て集まろうではないか。預言者ヨエルの招きに従って子供をも連れて来ようではないか。若き朗らかなる人達も此の世の束の間の享楽(きょうらく)を捨てて、マリヤの如く主イエスの足下(あしもと)に平伏そうではないか。
リバイバルの秘訣は常に同じである。天を開いて恵の洪水の浴びるためには近道とか近代的方法とかいうものは存在しない。先ず己を卑くすること、悔改神の恵と祝福を俟(ま)ち望んで真剣に神に祈ることである。恵の御座に教会が跪(ひざまず)いて、額(ぬか)づいて祈る時、神の祝福が始まる。我等も己を卑くし、深い謙遜(けんそん)と真摯(しんし)なる悔改とねばり強い祈とをもち一団となって主を俟(ま)ち望もうではないか。
- 第3号より 1954年(昭和29年)3月『殉教一路』
“視(み)よ我(われ)新しき事をなさん頻(やが)て起(お)こるべし”
(イザヤ43:19文語訳)殉教一路
1942年、主は私に「教育界を去り単身起(た)ち上(あが)って名古屋に傳(でん)道(どう)をせよ」と宣(のたも)うた。その時に“視(み)よ我(われ)新しき事をなさん頻(やが)て起(お)こるべし”との聖言(みことば)とともにリバイバルの幻を見せ給(たも)うた。愈(いよいよ)、傳道(でんどう)に起(た)ち上(あが)がるや主は更(さら)に次の二つの事をおしめしになった。
(一)私一身の生活に就(つ)いては人に依存(いぞん)せずたヾ主を当(あて)にすべきこと
(二)私一身の健康に関してはたヾ主を癒主(いやしぬし)として信頼すべし
というのであった。その結果は不思議と必要は満たされ病める人々は癒(い)え救わるる人々は次第(しだい)にふえて活けるキリスト一麦教会ができ上がった。
- 第4号より 1954年(昭和29年)4月 『噫(ああ)!! 殉教の魁(さきがけ)、津村兄』
“もし死ねば豊かな実を結びます。”(ヨハネ12:24新改訳)
噫(ああ)!! 殉教の魁(さきがけ)、津村兄
津村兄が私を呼んで罪の告白をされた。それは約2時間にわたり微(び)に入り細(さい)にわたっての告白であった。ノートに詳しく書いておいてそれを逐一(ちくいち)告白された。実に徹底した告白であった。兄のモットーは「聖言を枕に討死(うちじに)せよ」であった。主は信じ従う兄を辱しめ給わず、あの大患(たいかん)から奇しくも起上らしめられ約半年にわたって東奔西走(とうほんせいそう)、多くの人が何十年かかっても爲(な)しえぬ程の福音の大業を爲(な)し遂げて慕われ惜しまれつつ天のホームに凱旋して行った。霊界の原則は捨てて拾うのである。一麦教会は兄のこの殉教の霊に続くべし。
- 第5号より 1954年(昭和29年)5月『聖霊のバプテスマ』
“もし死ねば豊かな実を結びます。”(ヨハネ12:24新改訳)
聖霊のバプテスマ
“彼らのうち多くは神の御意に適(かな)わず荒野にて亡(ほろぼ)されたり”(コリントⅠ10:5)埃及(エジプト)をでたイスラエルの民等はカナンに入る爲に進んだのだがその大部分は目的地に達しえずして荒野に死屍を横たえてしまった。紅海は渡ったがヨルダン川が渡れなかったのである。その様に多くの信者は罪を悔い改めて十字架の血により赦された確信は受けたかもしれないがたえず聖霊に満たされるところのカナンの境地(安息)に達しえずして苦しんでいるのである。そのわけはその根源である自我がまだ残っていて真の自由と平安に入れない爲である。
人間性来の傲慢・不信仰・肉欲・名誉心等サタンの投込んだ罪の性質が底岩の如く蟠踞(ぼっこ)して、これが本能性の如く働く為に真の安息に入れないのである。斯様(かよう)に罪深き人間を神の性質に與らしめるには努力・修業・難行苦行では到底爲し得べくも非ず、唯カルバリーの血のみ、聖霊の御働のみよくその罪性を破壊し新しい性質に創り変え得るものなのである。一切の人手を休め御血に委ねきる時聖霊は十字架をしめし給うて自我の死んでいることをハッキリ知らせ給うのである。自分で死ぬのでない。エス様が(二千年前)十字架に死んで我らの自我を磔殺(たくさつ)して下さっているのである。
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