巻頭言集6-10
月報「活けるキリスト 一麦」巻頭言集 松原和人著
2009年2月第3週から週報に巻頭言集から抜粋し、「今週の霊想」として、毎週掲載しています。
- 第6号より 1954年(昭和29年)6月『リバイバルの年』
“もし死ねば豊かな実を結びます。”(ヨハネ12:24新改訳)
リバイバルの年
自分のことを述べて恐縮であるが、この十日は私の四十九年の誕生日である。来年の六月十日で満五十歳になる。就いてはこの一年間にかねてよりの御約束“視よ我新しき事をなさん頓(やが)て起るべし”の聖業を実現して頂きたいものと思う。いや必ず成ると確信をもって祈り求めねばならぬ。先ず健康が支えられ必要を与えられねばならない。次に教会が分裂したり、サタンの働に乗ぜられることはないかである。次に大切なことはリバイバルに関して主が啓(しめ)してい給う光を私共がそのまま忠実に歩みうるかどうかである。それについで大切に思うことは会員諸兄姉をよく訪問し祈祷に伝道に通信に精出すことである。希(ねがわ)くば主よ、この一年間に汝の聖業を活き働かせ給わんことを!!
- 第7号より 1954年(昭和29年)7月『神癒(しんゆ)』
“わたしは主、あなたをいやす者である。”(出エジプト記15:26)
神癒(しんゆ)
純福音には神癒(しんゆ)はつきものである。エジプトを出たイスラエルの民が紅海を渡るとまもなく神様は「わたしは主、あなたをいやす者である」(出15)とて癒主(いやしぬし)として顕(あらわ)れ給うた。主は今尚活きて在(いま)せば信ずるものにも今も昔と変りなく働き給うのである。救いにしても潔めにしても聖霊の働きによってのみ信ずることが出来る様に、神癒(しんゆ)も御霊(みたま)の働きによらざればサッパリ判らぬ、理性を超えた超自然の聖業(みわざ)である。我らは聖書をそのまま信ずる。ただそれだけである。幼児の如く単純に聖言を信ずる。その信ずるところに神様は極めて大いなる力を顕(あら)わし給うのである。
私は今から十数年前主を癒主として受納(うけい)れ奉(まつ)って以来驚くべき聖業を拝し多くの病者が祈りによって癒(い)えるのを体験した。“エホバは汝がすべての不義(ふぎ)をゆるし、汝のすべての病をいやし”(詩百三の三)今この文を読まれる人々の中に病む人あらるるか今直ちにこの聖言を確(かた)く信じ主にその病を全く委ねられよ。信ずるはあなたの領分-疑うべからず-癒(いや)すは主の御領分で必ず主は癒(いや)し給う。罪をはなれ確(かた)く信じたに関わらずもし万一癒(い)えぬとすれば癒(い)えた以上のよいことを主はなし給う。ハレルヤ。
- 第8号より 1954年(昭和29年)8月『生活問題と福音』
“まず神の国と義とを求めよ然らば凡てこれらの物は汝らに加えられるべし“(マタイ6:33)
生活問題と福音
人生の四大問題とは罪・病気・生活・死の四つを云う。その他人生百般の問題が悉(ことごと)くイエス様によって解決されるとは実に有難い事である。この教会の創立当初主は「キリストを信ずれば生活に行きづまりはなく、肉体の病も癒えることを身を以って証詞せよ」と宣うたのであった。孤児の父といわれる祈りの人ジョージ・ミューラーの驚くべき偉業は私の大なる励ましとなった。私はこの教会はじまってこの方十二年余の間私共の生活の事で人にお頼みしたことは一度もない。乏しいこと無くなることは再々だが、その都度人に打ち明けず神様にお願いして与えられて来た。“わが扶助はいずこよりきたるや、わがたすけは天地をつくりたまえるエホバよりきたる“(詩篇121:1)。
信仰の父アブラハムは“無きものを有るものの如く呼び給う神”(ロマ4:17)を信じてその信仰を神様からよしと認められた。然(しか)り、主は無から有を生じ給うお方なのだからどんな窮乏(きゅうぼう)の時にもただ主を見上げ、手離しの信仰裸の信仰(Naked faith・見ゆるところに頓着せず聖言をそのまま信ずる)をもって主を俟(ま)ち望(のぞ)めば必ず充(み)たし給う。されば望みなく思われる時にも、為(せ)ん方つくる時にも希望を失う勿(なか)れ、四方八方塞(ふさ)がった様に思われても天の窓は開かれている。祈れば必ず応えられる。生活難になやむ人々よ!!来たりて神の聖前にひざまづかれよ。天の父は必ず助け給う。
- 第9号より 1954年(昭和29年)9月『純福音』
“それ神の言には能(あた)わぬ所なし“(マタイ1:37)
純福音
「一麦教会の特色は何ですか?」とよく人に聞かれることがある。特にこの教会がどうこうと云うべきものではないと思うが、何とかしてイエス様の時代そのままの純福音に帰ろうとしているのである。それには全き献身全き信頼と全き服従が大切である。先ず罪は徹底的に-大小洩(も)れなく告白して悔改めなければなりません。聖書によって徹底的に自我の真相を糾明(きゅうめい)して頂き掘り下げて頂いてその己を立てようとし、己が何ものかになろうとし、自分で何かできるように思い、何かせねばならぬように思う、その自我を完全に十字架に磔殺(たくさつ)し終るべきである。これ我らの願いである。
- 第10号より 1954年(昭和29年)10月『愛のこらしめ』
“わが為すことを汝今は知らず後に悟るべし“ (ヨハネ13:7)
愛のこらしめ
去る6月から真剣にリバイバルを祈り始むるや、新しい霊魂が次々と加えられ教会は俄然活況を呈し生命懸けの祈祷は必ず応えられるものなることを実証した。然しそれと同時に私の健康は害(そこな)われ胃の痛みにたえず悩まされ又痩せて体重は一貫五、六百目も減った。ああ然しこれは大いなる愛の鞭であった。神様は深い御旨を悟らしめんと私を取扱い給うたのであった。第一私は神癒に対して今一息、信仰が足りなかったこと。第二は「お前はリバイバルを起そうとしているそれではいけない」とおっしゃったのである。リバイバルを祈るその心の奥に知らずして誇る心、自分の考えがひそんでいた為に主に全く任せ切れず自分で気張り、自然無理を生じて胃にこたえたのであった。
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